ふぁ、とあくびをひとつ漏らし、ディアッカはドアをくぐった。
「おはよーございまーす」
ここ『ヴェサリウス』は、いわゆる貸しスタジオだ。
防音設備もしっかり整っており、部屋の大きさも様々。
アマチュアバンドの練習には欠かせない楽器類を設置した部屋や、演劇やバレエなどの自主練のための特別な床張りの部屋。
これだけバラエティ豊かで、しかも決して高くない使用料金、となれば金欠な若者たちが飛びつかないはずもなく、毎日予約はほぼ埋まっている。
ディアッカはここのスタッフとして、もう二年ほど働いていた。
オーナーであるムゥ・ラ・フラガは大きな会社を幾つも経営している。
そんな彼がなぜ大した利益にもならないスタジオ経営なんぞに乗り出したのか、未だにディアッカは不思議に思っていた。
「あ、ディアッカ。これ預かってんぞ」
早番のミゲルから紙袋を渡され、ディアッカはきょとんとそれを見下ろした。
「なんだこれ?バレンタインでも誕生日でもねぇし…」
「モテる男は辛いねぇ。ついさっきまでそこでお前が来るの待ってたんだけどさ、用事があるからって頼まれたんだ。たまに来る茶色の跳ね毛の女の子」
ひゅ、と気づけば息を飲んでいた。
慌ててロッカールームに駆け込み、袋の中身を取り出す。
「──これ、あの時の…」
それはもう十日ほども前、雨に濡れた奇妙な女に貸したディアッカの洋服だった。
綺麗にクリーニングされ、アイロンまでかけられている。
ほのかに香るのは、柔軟剤だろうか?
がさ、とロッカーに紙袋を突っ込み、ディアッカはフロントにいるミゲルのところに駆け戻った。
「なあ、さっきの女は?」
「は?だから言ったろ。用事があるから帰った、って。ほんとニアミスだったんだけどな」
「…悪い、15分時間くれ」
「へ?」
「今度おごるから!んじゃちょっと出てくる!」
大げさに手を合わせた後、くるりと踵を返しスタジオから飛び出していくディアッカを、ミゲルはぽかんと見送った。
大通りに向かい、ただ走る。
あの時、彼女がいた場所だ。
確信などなかったが、彼女と自分をつなぐ場所はそこしかなくて。
履きなれたスニーカーに感謝しながら、ディアッカは全速力で大通りに飛び出し──横断歩道に立つ後ろ姿に、釘付けとなった。
ピンと伸びた背筋に、小さな顔。華奢な体。
オレンジ色のワンピースを身に纏い、柔らかそうな茶色の跳ね毛を風に揺らしながら、彼女は立っていた。
心臓が、痛い。
なんだろう、これは。
まるで鷲掴みにされているような、締め付けられているようなこの感じ。
ああ、顔が見たい。もっと、ちゃんと。
あのアクアマリンの瞳に、自分を映したい。
「……おい」
「きゃ…」
掴んだ手首は予想以上に細くて。
きょとんと自分を見上げる碧い瞳に、ああ、捕らえられた、とディアッカは悟った。
***
「キャンセル入ってっからあと一時間は邪魔も入んねーぜ」
「いえ、あの…邪魔なんて」
「あーもーうるせぇっつーの。サンキュ、ミゲル」
「んじゃ、どうぞごゆっくり」
語尾に音符が付きそうな声を残し、ミゲルがスタジオを出て行く。
残されたのは、スタジオのロビーに設置されたソファに浅く腰掛けた彼女と、カウンターの中に座る、俺。
「あの」
「えと」
しばしの沈黙ののち、同時に声を上げてしまい、ますます気まずさが漂う。
あれだけ走って追いかけて、半ば強引にここまで連れてきてしまったが、いざ二人きりになるとなかなか言葉が出てこない。
「あー、その、もしかして予定とか、あった?この後」
「…いえ。レッスンの後の自主練に来ていたので、帰るだけ、でした」
「レッスン?」
間抜けにも首を傾げると、彼女は小さく微笑んだ。
それだけで胸が高鳴るなんて、俺としたことがどうなっちまってるんだ、ああもう!
「バレエ、やってるんです。端役ですけどオーディションが近いので、自主練しないととてもじゃないけどついていけなくて」
その言葉に、すっ、と頭に上っていた血が少しだけ下がったディアッカはそれと悟られぬように、へぇ、と相槌を打ち、話題を変えた。
「んーとさ、その、服…洗濯までさせちまって悪かったな。それと朝飯。すげぇうまかった。サンキュ」
「わ、私こそ…みっともないところをお見せして…」
「いいって。なんかあったんだろ?あー、その後、大丈夫かよ?」
びく、と華奢な肩に力が入ったのが分かった。
「…はい」
小さく返事をし、そのままうつむく姿は、とても大丈夫そうには見えなかった。
と、小さな音がロビーに響き渡り、はっと彼女が膝の上のバッグに目を落とす。
「すみません、ちょっと……っ」
スマホの画面を見つめる彼女の顔色があからさまに変わったことに、ディアッカはすぐ気がついた。
「…出ねぇの?」
「っ、失礼します」
すっと立ち上がり、スマホだけを手にしてスタジオの外へと小走りに出て行く彼女を目で追い、溜息が漏れた。
あの様子じゃ、電話の相手はあの日の元凶か?
なぜか、無性に苛立ちを感じた。
あんな顔、俺なら絶対にさせないのに──。
そこまで考えて、ディアッカははっと我に返った。
さっきから何なんだ一体?!まるでこれじゃ、俺があの女に……!
「…あの」
「あ?あ、ごめん、ぼけっとしてた」
いつの間に戻ってきたのか、カウンターのすぐ向こうに彼女が立っていて、ディアッカは慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい、ちょっとこれから人に会わないといけなくなってしまって」
「…電話の、相手?」
きゅっと唇を噛み、コクリと頷く仕草に、ディアッカの心が掻き立てられる。
これで終わりにしたくない。
このスタジオを利用しているのなら、また会えるのかもしれない。
だが、それだけじゃ、足りない──!
「あのさ。こないだのお礼、したいんだけど」
「え?お礼?」
「明日って空いてる?」
「あし、た…は、ええと、はい。レッスンが終われば」
「てことはこんくらいの時間ならOK?」
「はい…あの、でもお礼って何の…」
ジーンズのポケットからスマホを取り出し、ディアッカはにっこりと微笑んだ。
「家庭の味に飢えてる俺に、スペシャルな朝メシを用意してくれたお礼。てことで、連絡先交換しよ?あ、その前に自己紹介な。俺はディアッカ。ディアッカ・エルスマン、二十二歳」
「……ミリアリア・ハウです。歳はあなたの一つ下、二十一歳よ」
そう言って彼女──ミリアリアは、ふわりと笑った。
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ようやく更新、第二話です。
こちらのお話、終わりは決まっているのですがそこまで行くのにかなり時間がかかりそう…;;
バレエに関してはほぼ素人で、家族に聞いた知識だけでなんとかやっていければと思っているので
今後いろいろおかしなところが出てくるかもしれません。
どうぞその辺は、生温く見守っていただければと思います;;
さて、まだまだ背景の描写までは至らない本作ですが、現在完全にディア→ミリですね(笑)
ここからどうやって想いを通わせていくのか、どうぞ気長にお付き合いいただければ幸いです。
2017,5,3up