思い出の曲

 

 

 

 

「シホはいつこれを弾いてるんだ?」
「え?…あ、ええと…気が向いたら、ですね。」
 
 
そう言ってシホは、いつも重厚なカバーがかかりっぱなしのアップライトピアノの前に佇むイザークに微笑んだ。
  
「嫌という程歌もピアノも毎日続けていたので、それも売ってしまうか迷ったんです。ここへ越してくる時に。でも結局手放せなくて…」
「…防音にこだわっていたのはそのせいか」
  
ザフト内にある寮に住んでいたシホに引越しを薦めたのは、二人が恋人同士になって間もない頃のことだった。
ディアッカとミリアリアの婚約も発表され、慌ただしく日々を過ごしていた中でシホが巻き込まれた事件。
それにより心に少なからぬ傷を追ったシホを気遣い、また本部内の寮ではゆっくり逢瀬を楽しむこともままならないと思ったイザークはあれこれ物件を探し、暇を見つけてはシホに見せていた。
シホの提示した条件はふたつ。
本部やイザークの自宅からあまり離れていないこと。そして、防音設備がしっかりしていること。
意外に神経質な一面もあるものだと思ったイザークだったが、ちょうど条件に合う部屋が見つかりシホは引越しをした。
それ以来何度となく足を運んでいたが、シホがこのピアノに触れることは一度としてなかった。
  
 
「…もし良ければ、だが。何か弾いてくれないか。」
「ーーーえ?」
  
 
驚いた顔をするシホに、はっと我に返ったイザークは慌てて首を横に振った。
「い、いや。気が向いたときで構わん。悪いな、突然。」
「…少し待って頂けますか?楽譜、持ってきますから。」
そう言ってふわりと笑い、シホは寝室へと消えていった。

 
 
 
「……久しぶりなので、お聞き苦しいところがあったらすみません。」
「俺はそこまでピアノに詳しくないんでな。気にしなくていい。」
  
程なくして戻って来たシホの手には、数枚の楽譜があった。
カバーを取ってピアノの蓋を開け、手にした楽譜にさっと目を通す。
すっと伸びた背筋と真剣な眼差しに、イザークはつい見惚れた。
細い指が鍵盤に置かれ、一瞬の間をおいて美しい旋律が流れ出す。
聞き覚えのあるその曲に、イザークは息を飲んだ。
 
 
それは、ヴェサリウスの娯楽室にあったピアノで、ニコルがよく弾いていた曲だった。
 
 
『戦争中にピアノなど…呑気なものだな』
『あれ、イザーク?いつからいたんですか?』
『ふん、偶然通りかかっただけだ。』
『そうですか。…確かに今は戦争中かもしれませんけど…やっぱり僕はピアノが好きなんです。プラントと同じくらい。』
『例えがおかしいだろう。国とピアノを同列になど…』
『そうかもしれませんね。でも僕はやっぱり、ピアノが好きです。プラントも、仲間もみんな大切だし、守りたい。だから…今だけは、大目に見てくれませんか?』
 
  
そう言って柔らかく微笑み、ピアノを弾き始めたニコル。
その頃の自分には、ただナチュラルへの嫌悪と自らの能力への絶対的な自信しかなくて。
プラントを守りたい、という思いも確かに存在はしていたが、きっと当時のニコルほどそれは強くなかった。
成人したばかりの、まるで子供のようだったニコル。
だがその心には、イザークやディアッカよりもはるかに強い芯を持っていたのだ。
心から守りたい、大切にしたいと思った存在が出来て初めて、イザークはあの時ニコルが言っていた言葉の本当の意味がわかった気がした。
  
シホの演奏は素晴らしく、美しい旋律は止まることなく続いている。
ピアノから遠ざかっているようだったが、本来はきっと演奏が好きなのだろう。
少しだけ微笑んでいる横顔からも、それが見て取れた。
「っ、え、イザーク…?」
背後からそっと細い体を抱きしめ、イザークは背中に流れ落ちた綺麗な髪に顔を埋める。
今日はニコルがこの世に生を受けた日。
ここへ来る前に花屋へ寄り、墓参りも済ませてきた。
きっと今頃はディアッカも足を運んでいるだろう。
  
ーー世界はお前の目指した平和に向かって進んでいるぞ、ニコル。
  
そう心の中で呟き、イザークは何よりも大切な存在を抱き締める腕に力を込めた。
 
 
 
 
 
 
 
007

 

 

ニコルお誕生日小噺のラストはイザーク視点です。
ディアッカもそうですが、なんだかんだ悪態をつきながらもイザークはニコルを信頼し、可愛がっていたのかなと。
いなくなって初めて大切な仲間と思っていたことに気づき、年を重ねて大人になって、そうした感情も素直に表に出せるようになっていったのではないかと思います。

 

 

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