いつの間にかスタジオ内に入り込んでいたディアッカに気付いた時には、もう遅かった。
あっという間に壁際へと追い詰められたミリアリアは、きっ、と目の前に立つ恋人を睨みつける。
「…練習の邪魔、しないで。話すことなんて何もないわ」
「俺はある、って言ったら?」
「そんなのあんただけの都合でしょ。私は踊るためにここに来てるの。あんたと話をするためじゃない。分かったなら出て行って」
冷たくそう言い切り、閉じ込められていた腕から抜け出そうとする。
しかしそれは叶わず、逆に強い力で腕を引かれ、そのまま唇を塞がれた。
「ん…やっ!やめてよ!」
「…なぁ。俺のこと、本当に好き?無理してねぇ?」
「な…」
返事を待たず再び重ねられた唇に言葉を奪われながら、ミリアリアは碧い瞳を大きく見開いた。
ディアッカ・エルスマンと知り合ったのは去年の秋。
恋人と別れたばかりのミリアリアがぼんやりと雨に打たれながら歩いていて、危うく車に跳ねられかけたのを助けられたことがきっかけだった。
もっと正確に言うならば二人の出会いはそれより前だったのだが、それを知ったのはだいぶ後になってからだった。
それから度々ミリアリアはディアッカと顔を合わせており、クリスマスには一度告白もされた。
だがミリアリアは当時まだ失恋の傷が癒えておらず、また大切なオーディションの前だった為、彼の気持ちに応えることはできなかった。
だが、その後もディアッカのアプローチは続き、紆余曲折を経て先月のミリアリアの誕生日に、晴れて二人は恋人同士となったのであった。
失敗だらけのバレンタインのチョコも渡し、合鍵も交換し、順調に交際を続けていた二人がひどい喧嘩をしたのは、三日前のこと。
原因は、ミリアリアが受けたい、と切望しているオーディションだった。
もしそれに通過すれば、しばらくミリアリアは海外に飛ぶことになる。
そしてそのオーディションの選考委員の中には、かつての恋人であったトール・ケーニヒの名もあった。
トール・ケーニヒは新進気鋭の演出家だ。
だから、ミリアリアがこうしてバレエの世界に居続ければ、いつかはこうした事態になる事も予想していた。
だが、ディアッカはオーディションの詳細を目にした途端一気に不機嫌になった。
『振られた男の前でなんて、いい演技できんのかよ?』
いつもならディアッカが拗ねて、ミリアリアがそれを宥めて、というのが二人のスタイルだったが、その言葉は深くミリアリアの胸を抉り。
付き合って以来初めてミリアリアはディアッカを怒鳴りつけ、止めるのも聞かず部屋を飛び出した。
馬鹿にされた、という思いが拭えなかった。
ミリアリアにしてみれば、トールはもう過去の思い出でしかない。
だから、たとえどこで鉢合わせになることがあっても心を動かされることなどない、とはっきり言えた。
今、ミリアリアが好きなのはディアッカただ一人なのだから。
だが、神経質で嫉妬深い一面もあるディアッカは、たまにこうしてトールの存在をひどく気にすることがあった。
確かにミリアリアは照れ屋で、なかなか素直に愛情表現ができない。
でも、自分なりに何度も伝えているのだ。ディアッカが好きだと。
それなのに同じようなことで何度も喧嘩になってしまうことが悔しくて、もどかしくて。
愛されている自覚と、それと常に隣り合わせに存在する不安。
また同じことを繰り返して、愛想を尽かされてしまうのではないか。
ひとりぼっちになるのではないか。
過剰に寄りかかってしまってはいないだろうか。
ディアッカの想いに、甘えてすぎては、いないだろうか。
結局それ以来ディアッカからは電話もメールも来ていない。
ミリアリアはため息をつくと支度をし、部屋を出て、ゆっくりと歩き出した。
***
ディアッカは、ミリアリアが度々利用するスタジオのスタッフとして働いている。
出勤する曜日も時間も決まっているから、今この時間帯であれば彼はきっとスタジオにいるはず。
顔が見たくて、声が聞きたくて。
みっともないと自覚はしていても、止められなかった。
ドアを開け、受付までまっすぐ進むとどこかぼうっとした様子のディアッカが驚いたように目を見開いた。
「…予約、してないんですけど。Bスタジオ、空いてますか」
「…十六時までなら」
「じゃあそれでお願いします」
ミリアリアの強い希望で、スタジオに一歩足を踏み入れたら二人は恋人でなく、スタッフとスタジオの利用者、として接することにしている。
だからディアッカは黙って利用手続きをし、ミリアリアも黙って指定した部屋へと入った。
何の解決にもならないけれど、顔を見られただけで嬉しかった。
まだ頑張れる、と思った。
練習用のレオタードに着替え、軽いストレッチの後、シューズを履き替え鏡の前に立つ。
オーディションで使う曲を流し、ゆっくりとステップを踏むと、いつもより少しだけ体が硬くなっている気がした。
そういえば、喧嘩した日以来全く踊っていない。
だらしないなぁ、とまたひとつ溜息をこぼしながらも、思いのままにただ、踊った。
踊ることで少しでも心の整理が出来ればいい。
そう思って無我夢中で踊っていたせいで、曲が終わるまでディアッカがそこにいることに気がつかなかった。
「……わからない」
少しだけ震えてしまった声に、今度はディアッカが息を飲む番だった。
「それって…やっぱ、俺のこと」
「ちがうっ!」
どん、と拳で胸を叩かれ、ディアッカは驚いたようにミリアリアを見下ろす。
やっぱり、うまく伝えられない。言葉が、浮かばない。
もどかしさと悔しさで、ミリアリアの瞳に涙が滲んだ。
「どうやったら…あんたに伝わるの?」
「──え?」
「トールとあんたは違うって…どう言えば納得するのよ?ねぇ?!」
「ちょ、おい、ミリ…」
「確かに寂しかったわよ!トールに振られて、ひとりになって初めて、依存してたんだって気づいたし!でも、私は寂しいって理由だけであんたと付き合ったりしない!私だってあんたのこと、本気で好きになったから、だから…っ」
不意にきつく抱きしめられ、ミリアリアは驚き体を強張らせた。
「……ごめん」
ぽつりと落とされた言葉の真意が分からなくて、それなのになぜか安心して、涙が溢れた。
ぐちゃぐちゃな感情が、制御できない。
「何、に対する…ごめん、なの?」
「つまんねぇヤキモチでサイテーな発言したこと。それと…お前を信じきれてなかったこと」
「っ…」
ひく、と嗚咽を漏らし、ミリアリアはディアッカを見上げた。
「…前のカレシとのこと、さらっとしか聞いてねぇけどさ。要はそいつがおまえのことを受け止めきれなかった結果だろ?別れたのって」
「……それ、は」
「依存してたって、おまえが外でも家でもバレエの話ばっかりして、ってやつだよな?それが嫌だったって言われたんだろ?」
「…うん」
そう。だから怖かった。
同じようなことをディアッカにして、同じように愛想を尽かされてしまわないかが怖かった。
似たような世界にいるトールなら構わないと思って話していたことも、重かったと言われた。
でも、ずっとバレエに打ち込んできたミリアリアには、他に何を話せばいいか分からなかった。
ディアッカのことを好きな気持ちが増していくのと比例して、付き合いたての今は良くても、そのうちまた呆れられて、つまらない女だと思われはしないだろうかとだんだん不安になって行った。
だから、強がるしかなかった。
「…俺は嬉しいぜ?おまえが自分の思ったことや今日何があった、って話してくれて」
「…え?」
「だって俺、もっと知りたいもん。おまえのこと。俺はミリアリア・ハウって言う女を好きになった。だから…俺も完璧じゃねぇけど、おまえ自身を受け止めたいし、受け止めて欲しい。俺のことも」
「…でも私、あんまりものを知らないわ。だからチョコだって、あんな…」
「だったら俺が教えてやるよ。そうやってたくさん話してさ、こう、なんつーのかな、お互いを知って行ければいいんじゃねぇの?」
思いもよらなかった言葉に、ミリアリアはまたひとつ嗚咽を漏らしディアッカを見上げる。
信じても、いいのだろうか。
さっきまで剣呑な光を宿していた紫の瞳が、かすかに揺れている。
ああ、この人も本当は怖かったんだ。
す、と小さな手を伸ばし、ディアッカの頬に触れる。
怖がらないでほしい。こんな思いを、あなたにして欲しくない。
そのために、私は、どうしたらいい?
逡巡したミリアリアだったが、答えはすぐに降りてきた。
「…ごめんなさい」
「なんでおまえが謝るの」
「一人で勝手に決め付けて、抱え込んで、壁を作っていたから」
「壁…?」
「私、もうトールに会ってもなんとも思わないわ。私が好きなのはあんただけだから」
きっぱりとそう口にすると、紫の瞳が大きく見開かれた。
「私、きっと面白いことなんて言えないわ。甘えるのも上手じゃないし、態度だってかわいくない。でもね、でも…」
「…うん」
必死に言葉を探して口ごもるミリアリアを、ディアッカはただじっと見下ろす。
「──私も、あんたのこと、もっと…知りたい、って思う」
受け止めると言ったのは彼。
受け止めてほしい、と思ったのは私。
なら、飛び込むしかない。
「だから、ごめん、ね。私も…あんたのこと、不安にさせて」
いつもは恥ずかしくてすぐに逸らしてしまう紫の瞳を真っ直ぐ見つめ、ミリアリアは想いをただ、伝えた。
するとディアッカはきゅっと眉を顰め…次の瞬間、痛いくらいの力でミリアリアを抱きしめると、そのまますとん、と床にへたり込んでしまった。
「きゃ…って、ちょっと、ディアッカ?!」
「……うん」
「うん、って何なのよ?ねぇ、もしかして具合でも…」
「いや…安心したら、なんか…力抜けた」
そう言ってはぁ、と深く息を吐くディアッカの呼吸音に混じって聞こえた、ぐぅ、と言う音。
それに自分でも気付いたのだろう。びく、と震える逞しい腕の中でミリアリアはきょとん、と涙の残る瞳を瞬かせた。
「…ごはん、食べてないの?」
「…どうしたらいいか考えてて、食う暇が無かった」
「あ、あれからずっと!?」
驚いて無理やり腕の中から抜け出すと、ディアッカはぷい、とそっぽを向いてごにょごにょと言い訳を口にする。
その耳はほんの少し、赤くなっていて。
そんなにも想われていたんだ、と実感し、ミリアリアは泣き笑いを浮かべた。
呼べば食事の一つや二つ、いくらだって持ってきてくれる女がいるだろうに。
ちゃんと食べろ、健康管理しろ、とミリアリアには言うくせに。
「…ばかよ。あんたってほんとにばか」
そっぽを向いたままの金髪に手を伸ばし、胸に抱え込むようにして引き寄せる。
一瞬体を強張らせたディアッカだったが、すぐに力を抜いてこてん、とミリアリアの胸に頭を預けてくれた。
「あと少しで終わりでしょ?…簡単なものになっちゃうけど、何か用意して…部屋で、待ってるから」
「……うん」
だらりと垂れたままだった腕が、ミリアリアの細い腰に回される。
急がなくてもいい。こうして少しずつでも話をして、互いを知って、距離が縮まっていけばいい。
温かな体温を感じながら、二人はいつしか目を閉じ、互いを抱きしめ合っていた。
***
「これ。安物だけど」
「え?」
スタジオから帰宅して、用意しておいた食事を嬉しそうに完食したディアッカがポケットから取り出した小さな包みを、ミリアリアはきょとんと見下ろした。
「今日、ホワイトデーだろ。こないだ買っといたんだけど、その…いつ渡せるか分かんなかったから、ずっと持ってたんだ」
「え…ホワイト、デー…ええっ!?」
バレンタインのすぐ後に付き合ったせいで遅くなってしまい、慌てて手作りしたチョコレートを贈ったのはひと月前。
湯煎の意味も知らなかったミリアリアが火傷をしながら必死に作ったチョコレートは、これまで彼女が見たお菓子の中で一番不格好で。
それでもディアッカは恐縮するミリアリアを抱きしめ、美味い!と大喜びでそれを受け取り食べてくれたのだが、まさかあんな出来損ないのチョコにお返しが貰えるなんて考えてもいなくて。
「だ、だって、あんな出来損ないのチョコにこんな」
「あのな、好きな女の手作りチョコだぜ?その辺で売ってる高いチョコより俺はそっちのが何倍も嬉しいの!だからほら、これ!」
「う、うん…ありがとう」
おずおずと包みを受け取り、ミリアリアはほんのりと頬を赤く染めながらそれを見下ろした。
「……あのさ、開けてみたりとかしないの?」
「あ!う、うん。じゃあ…」
こう言ったことに慣れていない──トールからのお礼はいつも食事とか、形に残らないものだったーーミリアリアは、慌てながら、それでも丁寧に包みを開け、出てきた小さな箱を開け……碧い瞳を大きく見開いた。
「きれい…これ、アメジスト?」
しゃら、と繊細なネックレスのチェーンをそっとつまみ上げ、ミリアリアは思わず声を上げていた。
「そ。そのくらいの大きさならレッスンの時にも邪魔にならないだろ?石も小さいし」
「これ…安物なんかじゃないでしょ?だってチェーンもプラチナだし、石だって…」
「万が一、汗とかアレルギーで肌が荒れたら困るだろ。オーディションだってあるのに」
はっと顔を上げると、柔らかく微笑むディアッカがそっとミリアリアの手からネックレスを取り、金具を外した。
「つけてやるよ」
首の後ろに手が回され、互いの距離が一気に近づく。
恥ずかしくて固まってしまったミリアリアを尻目に、ディアッカはすぐにネックレスの金具を止め終わったようだった。
「ん。似合ってる」
「…ほんと?」
「嘘ついてどうすんだよ。…オーディション、頑張れよ」
ミリアリアは首元に手を伸ばし、そっとネックレスを指でなぞると、花が綻ぶようにふわり、と微笑んだ。
「ありがとう、ディアッカ。こんなの初めてだからうまく言えないけど…すごく、嬉しい。大事にするね」
ディアッカから初めて貰ったプレゼント。
トールのお返しも確かに嬉しかったし、否定するつもりなんてないけれど、こうして形に残るものが、こんなにも嬉しいなんて。
もっと気の利いた言葉でこの嬉しさを表現できたらいいのに、と少しだけ悔しくなったけれど。
ちょっとだけ乱暴に引き寄せられ、そのくせひどく優しく重ねられた唇の感触に、まあいいか、とミリアリアは考えることを放棄し、ディアッカの背中に手を回したのだった。
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今回は、ブログでちょっとだけ触れたパラレルな物語の一部をホワイトデーの小噺と
させていただきました!
二人がこういう関係になるまでのお話は、もう少し身辺が落ち着いたら(というか長編が
終わったら)ゆっくり書いていくつもりです。
色々な設定も考えているので、どうぞ気長にお待ちいただければと思います!
皆様のホワイトデーが素敵なものでありますように!
いつも足をお運びいただき、応援して下さる全ての方に捧げます♡
初パラレルで拙さ全開な作品ですが、どうかたくさんの方にお楽しみいただけますように!!
いつも本当にありがとうございます!
2016,3,13up