ハニートラップ

 

 

 

 
「うわっ!」
「お、おいディアッカ、大丈夫か?すまない。」
ディアッカのグラスに腕を引っかけてしまい、危うくそれを倒しそうになったイザークは慌てて声を上げた。
「ああ、平気。つーかお前、そろそろシホのグラスの中身、水にでも取り替えとけよ。あいつ酒弱いんだろ?」
「ミリアリアとはえらい違いだな…」
「それ言うなって。多分アイツ、俺より強いぜ?」
 
そう言うとディアッカは、にこにことシホの話に頷きながら綺麗な色のカクテルをアイスティーのように飲むミリアリアにそっと目をやった。
 
 
たまにはお酒でも飲みに行かない?あ、イザークとシホさんも一緒がいいな。
 
 
そんな事を突然言い出したのは、ミリアリア。
ディアッカの最愛の妻である。
普段滅多に自分から酒など口にしないミリアリアのその提案をディアッカは快諾し、こうして4人、バルトフェルドおすすめの小洒落たバーに繰り出して来たのだが。
決して酒に弱くないディアッカを潰したエザリアですら一目置くミリアリアと、成人するまでアルコールなど口にした事も無かったシホでは、その許容量は天と地ほどの開きがあった。
「女同士の話です!イザークとディアッカはカウンターへどうぞ!」
少々呂律が怪しくなって来たシホのその言葉に、イザークとディアッカは戸惑ったが、ミリアリアの「大丈夫よ」との言葉を信じ、なぜか男女別れて酒を酌み交わしていた。
 
 
「ほら、水持って行って来いよ。イザークの言う事ならちゃんと聞くだろ、シホ。」
バーテンダーから水の入ったグラスを調達したディアッカは、ぐい、とそれをイザークに押し付けにやりと笑った。
確実に、おもしろがっているな…こいつ。
イザークはディアッカをひと睨みしてから溜息をつき、女性陣のいるソファー席に足を向ける。
 
「シホ、そろそ…」
「それでですね、水をぶっかけてやったんです!」
 
シホの言葉にぎょっと立ち止まるイザーク。
その後ろ姿を、ディアッカが不思議そうに眺めている。
 
 
「ほんとに?ずいぶん思い切った事したのね。で、どういう訳でそんな事になったの?」
「あれは確か…そうですね、ディアッカが緑服だったときの事です。私が本部内を歩いていたらーーー」
「お、おいシホ、何の話を…」
「あらイザーク。これシホさんに?」
イザークの声にミリアリアが気付き、にっこりと微笑んで水の入ったグラスを受け取る。
「今ね、とっても面白い話を聞かせてもらってるの。……邪魔しないでもらえる?」
 
 
ーーー目が、笑っていない。
 
 
「…分かった。その、よろしく頼む。」
「ええ。心配いらないわ。」
 
イザークはくるりと踵を返し、ディアッカの待つカウンターへと戻った。
「お前、何やってんの?」
「……ディアッカ。その…頑張れよ。」
「は?」
訳が分からない、と言った顔のディアッカをよそに、ソファー席ではシホが熱弁を振るっていた。
 
 
 
***
 
 
 
シホは任務を終え、隊長室に戻る為急ぎ足で本部内を歩いていた。
「ねぇ、そんなに毎日忙しいの?今、こうして話出来てるじゃない!」
不意に耳に飛び込んで来たのは、甘ったるい、女性の声。
軍本部内で聞こえてくるにはあまり甘いその声に、シホは首を傾げた。
しかし続いて聞こえて来た声に、さっとシホの表情が変わる。
「あー…まぁ、たまたまだって。つーか、ここじゃ何だしとにかく入れよ」
それは、シホの同僚でもあり、敬愛する隊長ーーイザークの親友でもある、ディアッカ・エルスマンの声だった。
 
シホはそっと声のする方に顔をのぞかせーーー目を見開いた。
ディアッカが肩を抱いているのは、私服姿のきれいな女性。
そして、今まさに連れ込もうとしているのは、現在使われていない応接室。
副官レベルであれば個人の認証用カードキーで出入りが自由な場所だが、任務の一環であれば隊長室や面会室を使えばいい事であって、こんな鍵のかかる応接室にどこぞの者とも知れない女性を招き入れる必要などない筈で。
ディアッカは先に女性を中に入れ、静かにドアを閉める。
それをしっかりと見届けたシホは、施錠の音まで聞こえてしまう鋭敏な聴覚を半分呪いながら足早にドアの前まで移動した。
 
 
 
「あん…こんな場所で?」
「俺に抱かれに来たんだろ?違う?」
「そんな露骨な言い方…来たきゃ来れば、って言ったのはディアッカよ?」
「じゃあなんで、こんなになってんだよ」
「ん…いじ、わるね…」
 
 
 
きし、とソファが軋む音。乱れる息遣いと、衣擦れの音。
嫌でも聞こえてしまう室内の会話と音に、シホの顔が真っ赤に染まり。
これ以上ここにいたら、ドアを蹴り破ってしまいそうな気がしてシホは足早にその場を離れた。
 
 
 
「………ただいま、戻りました。」
息を切らせて現れたシホの様子に、執務机にいたイザークは不思議そうに顔を上げた。
「あ、ああ。ご苦労だった。何か急ぎの用件でもあるのか?」
「え?」
「いや、やけに急いで戻って来ただろう?何か…」
「急ぎでは、ありません。今日中に済ませておきたいですが。」
「は?」
「隊長。この後少々騒がしくしてもよろしいですか?」
「…は?」
「ご不満でしたら2時間ほど席をお外し下さい。戻る頃にはあらかた片付いていると思われますので。」
 
 
きっ!と薄紫の瞳に射すくめられ、イザークはそれ以上何も聞く事が出来なかった。
紅潮した頬。素行不良な副官はともかく、自分に向けられる事などあり得ないきつい眼差し。
どこから見ても怒りに震えるその姿に、イザークは懸命にもシホの意思を尊重する事を心に決めた。
 
 
程なくシホが運んで来たのは、掃除用のバケツにたっぷりと入った、水。
それを入口ドアの横に置き、ありったけのぞうきんも用意するとシホは近くのソファにどさりと腰を下ろす。
「…掃除でもするのか?」
おそるおそる問いかけたイザークを振り返り、シホはにっこりと笑った。
しかし、その目は笑っていない。
「はい。私が、ではありませんが。」
 
じゃあ、誰が掃除するんだ?
 
疑問符だらけの頭でそう思ったイザークだったが、「…来た」と低い声で呟くシホに、びくりと体を震わせた。
シホはコーディネイトにより、常人よりも優れた聴覚を持つ。
通常では聞こえない範囲の声や音にも反応出来、それは普段の任務でも大いに役に立っていた。
だが、今回に限り、イザークの心に不吉な予感がむくむくと沸き上る。
 
 
ドアの横の水入りバケツ。
大量に用意された雑巾。
そして、誰かからの電話を受け、ちょっと出てくる、と言ったきり小一時間戻らない、素行不良の副官。
 
 
そして、かちゃり、とドアが開き。
「わりぃイザーク、ちょっと野暮用…」
「この、大馬鹿!!!」
「うわぁっ!!」
 
バシャ、と盛大な水音とともに遮られる、素行不良な副官の声。
イザークは思わず目を閉じ……意を決してそっと目を開く。
果たしてそこには、頭からバケツの水を浴びせられ呆然と立ちすくむディアッカ・エルスマンと、意殺すような視線でそれを睨みつけるシホ・ハーネンフースの姿があった。
 
 
「お、おま、なに…」
人生で初の体験であろうディアッカは、まともに口がきけないほどに驚愕しているようだった。
それはそうだろう。まともに生きていれば頭から水をかけられる自体など遭遇する筈も無い。
 
 
「さっきの女性、どこの誰?」
「え」
「どこのどなたですか、って聞いてるのよ!」
「あ、う」
「これで一発殴ったら、少しは頭も回るのかしら?エルスマン!!」
要領を得ない答えに、ついにシホはバケツを振り上げた。
「なっ…おい、やめろって!」
ずぶ濡れのディアッカが慌てて制止の言葉を発する。
 
 
「ちょっとは頭を冷やしなさい!私生活はどうしようと貴方の自由ですけど、軍本部に女を連れ込むのはやめなさい!実はスパイで機密でも漏れたらどうする気!?」
 
 
シホの怒声に、イザークは思わず目を剥いた。
「おい…今の話は本当か、ディアッカ。」
ナチュラルの恋人と別れて以来、昔以上に女性にだらしなくなった事は承知している。
だが、こともあろうか軍本部にまで女性を連れ込むのは、言語道断だ!
アイスブルーと薄紫、二対の瞳にきつく睨みつけられ、前髪を乱しながらディアッカは必死でかぶりを振った。
 
「違うって!あれは、面倒だから適当にあしらったらほんとに来ちまっただけで、別に俺が呼び出した訳じゃ…」
「面倒だから?」
「適当にあしらったぁ?」
 
潔癖な隊長と副隊長には、聞き捨てならないその言葉。
それが火に油を注ぐ結果になってしまった事を、ディアッカは悟った。
それでも必死に弁明を続ける。
 
 
「た、たとえスパイとかだとしても!お前ら、俺がそんな女のハニートラップに引っかかると本気で思ってるわけ?」
「思うわ。」
「思うな。」
またも綺麗に揃う、隊長と副隊長の声。
ディアッカはがっくりと肩を落とし、そして自分の格好を見下ろした。
「マジかよ…これで本部内歩けってのかよ…」
「腰にタオルでも巻いて帰ればいいんじゃないですか?どうせ着たり脱いだりお忙しいんでしょうし。」
つん、といつも以上に刺々しいシホの言葉に、ディアッカは呆然とする。
 
「私も鬼ではありません。ここに雑巾を用意しておきました。
自分の不始末は自分でつけて下さいね、エルスマン。」
「いや、充分鬼だろ…」
「それと!!」
またも氷のような視線を浴び、ディアッカは慌てて口をつぐむ。
 
 
「あなたはうまくやっているつもりでも、こうやって偶然誰かの目につく事だってあるの。
私や隊長ならともかく、他の人だったらどうするの?
あなたをよく思っていない人だって、まだいなくなった訳じゃないのよ?
みすみす嫌がらせの口実を作るつもり?」
 
 
ディアッカはその言葉に目をまんまるに見開いた。
「シホ…」
「分かったら、金輪際軍本部内に女性を呼び出すなんて事はしないことね。
じゃ、私は帰るから。ここの後始末、お願いね。
隊長、お先に失礼します。」
「ああ、ご苦労だった。」
綺麗な髪を靡かせ、すたすたとシホが出て行く。
ばたん、とドアが閉まり…それをあっけにとられた表情で見送るディアッカ。
その表情に、イザークは思わず声を上げて笑い出した。
 
 
 
***
 
 
 
「ミリアリアさん、今日は楽しかったです!ありがとうございました!」
そう言って深々と頭を下げるシホの足元はふらふらで。
慌ててその体を支えるイザークの姿に、ミリアリアはくすくすと笑った。
 
「色々と興味深い話が聞けて楽しかったわ。また飲みに行きましょうね、シホさん。イザークも。」
「あ、ああ。是非また機会があれば。」
 
どこか視線が泳ぐイザークに、ディアッカは訝しげな表情になる。
「じゃあ、おやすみなさい!行きましょ、ディアッカ。」
にっこり笑って手を降るミリアリアを眺めながら、イザークはこの後の親友の健闘を心でそっと祈った。
 
 
 
「なぁ、シホと何話してたんだよ?」
「…聞きたい?」
アパートへの道を歩きながら、ディアッカとミリアリアはそんな会話を交わしていた。
「イザークはなんか挙動不審だし…どうも気になるんだよなぁ」
「たいした話じゃないわ。ディアッカがシホさんにバケツの水をかけられたときの話、とか。」
 
ぴきん、とその言葉にディアッカが固まる。
 
「え、と。ミリアリアさん?」
一歩先を歩いていたミリアリアは、その声に振り返るとにっこりと微笑んだ。
そして、そのかわいらしい口から飛び出した言葉は。
「……サイテイね、ディアッカ。」
「なっ…!」
顔は笑っていても目は笑っていないミリアリアに、ディアッカは絶句する。
「今日はディアッカ、ソファで寝てね?」
「え」
「本部の応接室より寝心地いいんじゃない?ああ、独り寝だとそうでもないのかしらね。」
「ちょ、おい、ミリィ!」
「あーあ、帰ったらゆっくりお風呂に入りたいなぁ。…ひとりで。」
 
 
明日は久しぶりの、二人揃っての休暇。
だからこの後いいムードに持ち込んで、アルコールの力で大胆になるであろうミリアリアをたっぷり堪能するつもりだったのに!!
 
 
ーーシホ…新婚家庭になんて地雷投げてくれてんだよ!
 
 
「ミリィ!ちょ、話聞けって!おい!」
「知らなーい」
つん、と顎をそらせてすたすたと歩くミリアリアを、ディアッカは慌てて追いかける。
だがディアッカは気付いていなかった。
彼に背を向けるミリアリアの口元がかすかに綻んでいる事に。
 
シホの話に呆れ、少しだけ嫉妬したのは確かだけど。
過去に拘っても、仕方ない。
 
でも、ちょっとくらい意地悪してやったってバチは当たらないわよね。
 
「ミリィ!待てって!」
「やーだ…きゃっ」
前に回り込んだディアッカが、ミリアリアをぎゅうっと抱き締める。
「…つかまえた」
「…逃げてないわよ、馬鹿ね。」
温かい、腕に閉じ込められ。
ミリアリアは目を閉じると、ディアッカの胸に甘えるようにこてん、と顔をくっつけた。
 
 
そうしてアパートに到着した二人が結局どうなったのかーーー。
 
 
イザークも、酔いが冷めた後に事の顛末を聞かされて青ざめたシホも、とても確認する勇気はなかったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
007

さて、この後二人がどうなったのかは皆様のご想像にお任せします(笑)
ちなみに、時間軸としては新婚ほやほや、結婚して半年後くらいです。
(シェリーとやり合うはるか前)
でもなんだかんだで私はハッピーエンドしか書けないのです(笑)
ミリアリアもちゃんとディアッカの過去を理解した上で結婚してるので。
まぁ、この甘々な感じなら、ディアッカはじっくりミリアリアを堪能出来た事でしょう(苦笑)

 

 

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2014,11,17 拍手up

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